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世田谷フォトギャラリー展示場

2016年2月15日 月曜日

NO1 都史跡・世田谷代官屋敷

世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20カ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれています。大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、その由緒により、昭和27年11月3日、「都史跡」に指定されました。同時に同家所蔵の古文書は一括して「都重宝(現在都指定有形文化財)」に指定されています。

また、現存する大場家住宅主屋及び表門の二棟が、近世中期の代表的上層民家としてよくその旧態を保存し、貴重な建造物であるとの理由で、昭和53年1月21日、住宅建造物としては都内で初めての「重要文化財」に指定されました。

NO2 大谿山豪徳寺(曹洞宗)

豪徳寺は,世田谷城主吉良政忠が,文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天承12年(1584)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の開山)の時,臨済宗から曹洞宗に改宗した。

寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後,井伊家の菩提寺に取り立てられ,藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立,寄進し,豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像,達磨・大権修理菩薩像,及び石灯籠2基,梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。

境内には,直孝を始め代々井伊家の墓所があり井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。他に直弼の墓守として一生を追えた遠城謙道,近代3大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓,桜田殉難8士之碑がある。また同寺の草創を物語る,洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋院塔画が残されている。(平成4年3月 世田谷区教育委員会)

彦根藩主井伊家墓所は平成20年3月28日清凉寺滋賀県彦根市)・永源寺東近江市)の墓所と共に国の史跡に指定されている。

又,当寺は招福猫児(まねぎねこ)の由来でも有名である。

NO3 松陰神社・東京

東京都世田谷区若林に所在する。旧社格府社。また、付近には国士舘大学(世田谷キャンパス)や世田谷区役所がある。東急世田谷線松陰神社前駅下車。

鎮座地にはかつて長州藩のお抱屋敷があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作,伊藤博文,山尾庸三,白井小助,赤根武人など松陰の門人によって小塚原回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。松陰の50年祭に際して寄進された32基の燈籠には伊藤博文木戸孝正山縣有朋桂太郎乃木希典井上馨青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼三樹三郎広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、禁門の変後の長州征伐の際に幕府勢によって一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸孝允が寄進した鳥居が残っている。敷地に隣接する形で桂太郎の墓がある。

谷を挟んだ向こう側には前62号に掲載した豪徳寺がある。ここは井伊家の菩提寺で吉田松陰を刑死させた安政の大獄を起こし,その後桜田門外の変で殺害された井伊直弼の墓がある。

NO4 駒沢給水塔

この給水塔は渋谷区(当時は東京府豊多摩郡渋谷町)の水道事業の一環として大正6年(1917)10月に実施計画に取り掛かりました。当時の渋谷町は人口が増加するに連れ井戸水が涸れたり水質が悪くなったりして飲料水が不足して来たために,これを解決するために水道を施設する事になりました。この水源は多摩川の川底の伏流水をくみ上げて河畔の北多摩郡砧村字鎌田(現在世田谷区喜多見)に設けた砧浄水場でろ過したあとポンプで東京府荏原郡駒沢村字新町(現在 世田谷区弦巻2丁目)に設置した駒沢給水場内の給水塔に送られました。この給水塔から自然流下によって渋谷町全域に送られました。

工事は大正10年(1921)5月に多摩川の河畔で起工式が行われ,大正12年(1923)3月に第2号給水塔(北側)から先に完成,町内の一部に給水開始。同年9月に関東大震災が発生しますが給水塔には被害はありませんでした。震災にも拘らず同年11月第1号給水塔が完成。同年3月に1号機と2号機がトラスで結ばれ全工事が完成して大正13年(1924)3月に竣工式が行われ現在と同じ風景が出現しました。

昭和8年(1933)3月には拡張工事によって配水池と第1ポンプ所が完成,昭和18年10月に都に移管されました。戦時中も施設に被害はなく,昭和40年に第2ポンプ所が建設されました。平成元年に第1ポンプ所平成11年に第2ポンプ所が停止して給水所としての機能を終えました。

(お断り) この説明文と写真は駒沢給水塔風景資産保存会のご了解のもとに,同会のホームページより説明文を抜粋し,又写真も同会仁科幹夫氏が撮影した写真を転載させて頂きました。

NO 5 九品仏浄真寺

当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが,正式には「九品仏唯在念仏院浄真寺」といい,浄土宗に属し,境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678年)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である「観無量寿経」の説相によって塔堂を配し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とは殆ど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。本堂には珂碩上人自作の釈迦牟尼如来(文化財)を本尊として安置し,第2世珂憶上人の時代の元禄11年(1698年)三仏堂とともに上棟した。本堂はまた「龍護殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「來迎会」(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が、來迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。「九品仏縁起より」

NO 6  高源院 浮御堂

世田谷区北烏山にあって臨済宗大徳寺派に属し、松葉山高源院と号する。本尊は釈迦如来の座像で足利時代の作といわれるが詳らかでない。開山の怡渓和尚の木像が安置してあるが、これも作者、時代ともに不詳。
元禄15年(1702)久留米藩第5代藩主有馬頼元公および夫人のために、怡渓宗悦和尚が開山した。はじめは品川東海寺の塔頭として、北品川に東海寺と称して建立されたが、後有馬頼元公夫人の法号養福院殿高源宗隆大姉から高源院と称した。明治26年ごろより無住となり、関東大震災によって廃寺となった。昭和10年ごろから有馬氏一族の有志が再建をはかり昭和14年現在地に移転したが、太平洋戦争のため再建計画は中絶している。
敷地内は植木が多く春はつつじ、夏は睡蓮、秋は萩など四季のながめがよい。特に庭内に清泉が湧いて池を作って、中央に浮御堂を建て、弁財天がまつってある。この池に昭和35年の秋から鴨が越冬するようになった。小鴨・軽鴨・真鴨が飛来し、軽鴨の産卵孵化がみられ、都会地としてはたいへんめずらしい場所である。
寺内には頼元公夫人の墓、切支丹燈籠がある。
開山の怡渓和尚は江戸時代の茶道石州流怡渓派の祖として有名である。(せたがや社寺と史跡より)

 

NO 7 せたがやボロ市

天正6年(1578年)、北条氏政の「楽市掟書」により世田谷城下で楽市として始まった。江戸小田原の間にある世田谷宿において伝馬の確保のため、宿場を繁栄させようという目的があったといわれる。当時は、毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日に開かれた。その後、北条氏豊臣秀吉により1590年小田原征伐で没落し、北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されたことから、楽市は急速に衰えた。しかし、その後も近郊農村の需要を満たすため、農具市として年末に開かれる歳市に形を変えて存続した。明治新暦採用後は1月にも開かれることとなった。最盛期には2000店の露店が並んだ。1994年9月には世田谷区から、2007年2月には東京都から、それぞれ無形民俗文化財として指定されている。現代ではせたがやボロ市保存会(地元町会・商店会を中心に結成)によって主催され、毎年1月1516日12月1516日の午前9時から午後8時まで開催されている。今では古着のほかに、骨董品古本植木食料品神棚玩具寝具、新品の衣類、生活雑貨などが売られている。(ウィキペディアより引用)

 

NO8   玄照寺

 

当山は慶長19年(1614年)開山小湊誕生寺第18世忠禅院日延上人、開基覚隆院日諦上人によって広宣流布、万民教化の為、芝白金の地に開かれる。 文禄元年(1592年)太閤秀吉公朝鮮出兵文禄の役の際、小西行長が加藤清正に請うて朝鮮王子の臨海君・順和君の二人の王子を捕えるも、両国講和を結び、朝鮮へ送還する代わりに臨海君の男女二人の子を我が国に迎えた。それより清正公が慈念を以って煦育(く いく)した弟君がのちの忠禅院日延上人である。又姉君は庭瀬藩主戸川肥後守達安の側室となり、爾来、戸川家は当山外護の檀越となったと伝えられる。元禄2年(1689年)第3世恵眼院日晄上人の代に、不受不施派の禁圧により5代将軍綱吉公より、碑文谷法華寺(現・目黒区円融寺)の末寺から身延山久遠寺直末たることを申し付けられる。 降って、第25世伊丹霊瑞(瑞牙院日光上人)の代に至り、関東大震災後の区画整理の為、昭和2年(1927年)芝白金の地より当烏山の地に移転し現在に至る。 なお当山の日蓮大菩薩は、雨乞い(女乞い)の祖師として知られ農家の人や女人の信仰が厚い。墓所には戸川家代々の墓、堂内には子育鬼子母神像、大黒尊天像、清正公像などが勧請安置されている。(玄照寺縁起より)

尚、当寺の門と本堂前にそれぞれ一対の狛犬が鎮座しているが、朝鮮から持ち込まれたものというだけでその由来ははっきりしていないようである。朝鮮から持ち込まれたものであると狛犬ではなく獅子というべきか。

 

 

NO9 江戸太郎重長公像

江戸太郎写真

江戸氏・喜多見氏の菩提寺である慶元寺境内に江戸氏二代目江戸太郎重長の銅像がある。その背面の台座に下記の碑文が記載されている。

重長は始祖重継の子で江戸氏二代目である。江戸の地に居を構え周辺を領有していた。再起した源頼朝の武蔵入國に助力した功により武蔵國諸雑事、在庁官人並びに諸雑事を仰せ付けられ更に源平合戦、奥州征伐等に参戦鎌倉幕府樹立に尽力し右兵衛尉に任ぜられ武蔵七郷を賜った武将である。嘉禄元年八月十二日歿。

文治二年、父の菩提のために江戸館地の紅葉山に建立した東福寺が慶元寺の前身である。

当山開基八百年に当り、江戸太郎重長顕彰報恩の意を以ってこの像を建立す。

昭和六十年十一月三日

願主永劫山慶元寺

第三十二世道譽元鏡

 

尚、江戸太郎重長の業績は「せたかい66号」本文「慶元寺報集録から読む江戸氏・喜多見氏の小史」に掲載してありますのでご覧ください。

 

NO10 世田谷区立若林小学校

世田谷区立若林小学校(世田谷区若林5-38-1)は明治4年(1871)太子堂郷学所として開校された都内で2番目、世田谷区で1番目の小学校である。この太子堂郷学所は子供たちが学べる場所をつくろうと近隣の人たちがお金を出し合って作ったとされている。明治6年12月第2中学校4番小学校荏原学校と名称変更され翌年1月に開校式が行われた。明治14年5月に東京府荏原尋常小学校に名称変更。明治35年現在地に校舎竣工。その後東京市荏原尋常小学校、東京府東京市若林国民学校、東京都若林国民学校と名称変更の後昭和22年4月に現在の東京都世田谷区立若林小学校となった。この学校の校舎2階には平成23年12月に創立140周年記念事業の一環として郷土歴史資料館が開設された。郷土の歴史を残すために以前から資料の展示活動などに取り組んで来た地元の若林町会と、校内に点在する資料を活用したい学校の思いが一致した結果である。展示されているのは、関東大震災直後の松陰神社の様子や、歴代卒業生の集合写真、太子堂郷学所の提唱者の斎藤寛斎氏の写真や郷学所の校舎を再現した模型等、郷土の資料や明治時代の写真など約1000点が展示されて児童の学習の役にも立っている。

この歴史ある校舎であるが、平成31年には若林中学校跡地に建てられる新校舎への移転が決まっている。

 

NO11 松陰神社石灯籠

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フォトギャラリ―NO3で既にご紹介した松陰神社は、吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文などによってこの世田谷若林の地に改葬されました。今年はNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰の妹で久坂玄随の妻「文」と共に松陰の門下生の活躍の様子が演じられているので、再び松陰神社を取り上げました。

今回は神社境内に毛利元昭公を始め松陰の門下生の伊藤博文、山縣有朋などの縁故者より奉納された32基の石燈籠がありますので、一部ではありますがこの写真をフォトギャラリーに掲載しました。石燈籠の燈柱に刻されている文字は書家高田竹山の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされています。

32基の石燈籠の寄進者名は次の方々です。(敬称略)

毛利元昭(公爵)・伊藤博文(公爵)・山縣有朋(公爵)・井上馨(侯爵)・桂太郎(侯爵)・木戸孝正(侯爵)・佐久間左馬太(伯爵)・乃木希典(伯爵)・吉川經健(子爵)・毛利元忠(子爵)・毛利元秀(子爵)・毛利元雄(子爵)・吉川重吉(男爵)・小早川四郎(男爵)・大村徳敏(子爵)・毛利五郎(男爵)・廣澤金次郎(伯爵)・林博太郎(伯爵)・山田英夫(伯爵)・品川彌一(子爵)・青木周蔵(子爵)・野村靖(子爵)・河瀬真孝(子爵)・杉孫七郎(子爵)・曽禰荒助(子爵)・長谷川好道(子爵)・大島義昌(子爵)・寺内正毅(子爵)・入江貫一(正7位)・井上光(男爵)・岡澤精(子爵)・藝備協会

尚、上の写真に写っている石燈籠には本殿に近い左右2基は毛利元昭、2列目右側が吉川經健・毛利元忠、同左側が毛利元秀・毛利元雄、3列目(写真一番手前)右側吉川重吉・小早川四郎、同左側が大村徳敏・毛利五郎により寄進されたものとして名前が刻まれています。

 

NO12 下北沢天狗祭り

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この行事は、地元下北沢にある曹洞宗大雄山真龍寺(通称:道了尊…小田原にある大雄山最乗寺の分院)が、毎年2月の節分会の催しとして行われている「天狗道中」が母体であり、この道中は関東一円は勿論、全国各地で行われる節分会の中でも、他に類を見ない大変珍しい行事である。

明治初年の頃、原湛山大和尚が自作の十一面観世音を本尊として関東一円の邪気を払い、世間の浄化につとめ、和合一体の精神で巡錫修行をしていたとのこと。その後昭和4年に、伊藤道海大和尚により、北沢の守護神として安置され大雄山真竜寺が創建された。その年建立を記念して帝都一円にわたり平和浄化の為巡錫を勤めた。それ以来毎年節分に大衆と一体となり、開運厄除けの天狗道中を行っている。
当山の豆撒きは『福は内、福は内、福は内』を3回唱えるだけで、「鬼は外」とは言わない。これは「心に福が充満すれば、鬼は自ら退散して行く」との道海大禅師の教えを受け継いでいるからとのこと。

現在では一番商店街が主催するイベントになって居て、節分の前の週の土・日に行われて、その前夜は道中前夜露払いの儀として一番街商店街の飲食店に大天狗様の子分、烏(からす)天狗様が出没し、夜の豆まきを行なう。天狗祭り当日は町中が大盛り上がり、大天狗を中心にカラス天狗・山伏・年男・大天狗面車などの行列が、ミス世田谷もまじえて、街中を豆を撒きながら練り歩き、道を通ることすら難しくなるほどとのことである。

 

 

NO13  延命山勝光院


勝光院は初め金谿山竜凰寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同10年客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
同19年、徳川家康から寺領30石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千手観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。(世田谷区教育委員会掲示より)

 

NO14      九品仏の紅葉

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当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが,正式には「九品仏唯在念仏院浄真寺」といい,浄土宗に属し,境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678年)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である「観無量寿経」の説相によって塔堂を配し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とは殆ど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。本堂には珂碩上人自作の釈迦牟尼如来(文化財)を本尊として安置し,第2世珂憶上人の時代の元禄11年(1698年)三仏堂とともに上棟した。本堂はまた「龍護殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「來迎会」(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が、來迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。「九品仏縁起より」

近年敷地内の整備が進み紅葉の時期には京都の寺院を思わせるような美しい景観が見られる。

又現在「平成九品仏大修繕事業」が行われていて9体の仏像が順次京都に送られて修繕が進められていて2034年までかかるとのこと。